DAY 017 A witch suddenly attacks your back.

あの突然の悲劇からちょうど一ヶ月が経った。人類が二足歩行を続ける限り誰にでも起こりうる悲劇。根本的な解決策は四足歩行に戻るしかない。実際に遭遇するまでは自分の人生とは無縁だと思っていたが、交通事故と同じでただ運が良かっただけだったのだ。そういえば今まで4度弱者的立場で交通事故に遭っているなあ。でもそのいずれの場合ももこんなに悲劇的かつ壊滅的ではなかった。

 

日本を出るまであと10日と少し、買うべきものや用意するべきものもほぼ揃ってぼちぼち荷造りをしなきゃと思っていたある土曜日の昼下がりに何の前触れも前フリもなくそれは突然起こった。昼食を取る前にシャワーを浴びて脱衣所で身体を拭き、かがんでパンツに右足を通そうとした瞬間今まで味わったことがない激痛が腰に走った。擬音を使うならばグニャリだったな、自分の腰がまるで弾力が失われた古びたゴムみたいに感じられた。

その瞬間文字通り床に崩れ落ち、革命で市民たちから怒りとともに倒された独裁者の石像みたいに硬直し1ミリだって動けなかった。自分自身何が起きたのか全く理解できておらず、行き場を失ったパンツがみじめに右足に引っかかった無様な体勢でただ呆然としていた。やがてとりあえずパンツだけでも履かねばならぬ、実家の家族にこんな姿を見られるぐらいなら20年ぶりに梅干しを食べたほうがましだと気合を入れてパンツを履き他の衣類を着用した。

もちろん服を着ている間身体を少しでも動かすたびに激痛が走り、その度にウッウッと情けない嗚咽を漏らした。30歳を過ぎた男が床で嗚咽を漏らすなんてもう全然笑えない。テレビドラマでそんなシーンが放送されたらとても見ていられずにすぐチャンネルを変えるだろうし、そもそも優秀なTVマンはそんな誰も得しないシーンなんか撮影しない。

激痛に耐えつつ壁に身体を預けつつ中腰で立ち上がりリビングに向かった。すでに昼食を食べ始めていた他の家族はみな怪訝そうに自分を見ている。椅子に座って脱衣所で起こった出来事について弱々しく話したらさくっと断言された。「ぎっくり腰」と。

父親がいきつけの診療院が土曜日でも診療していたので予約してもらい、リビングのソファで横になってじっと時が過ぎるのを待つ。痛みはひどくなっていて、食卓の椅子からソファまで5メートルの距離は四つん這いになって移動した。ソファの上では博物館に展示されている棺桶の中のミイラのようにひたすら天井のシミを見つめていることしか出来なかった。

その後つかまり立ちさえ出来ずに玄関から車までの路上もハイハイして歩き、診療院に着いて見てもらったところやはり重度のぎっくり腰だった。不幸中の幸いだったのは足にしびれがなかったのでヘルニアではなかったことぐらい。治療法は痛みがある程度引くまでひたすら安静にするしかないということだった。

土曜、日曜とベッドの上で過ごした。トイレに行く時は洋式便座を発明したはるか昔のクリエイティブな便座職人に心の底から感謝した。月曜日になるとコルセットを巻いたら何かに掴まっていれば歩けるくらいに回復していたが、腰の角度は80歳を過ぎた祖母よりも遥かに曲がっている状態だった。

診療院の先生の1週間で治るよという台詞を土曜日の時点では信じられなかったけれど、実際に火曜、水曜と時間が経つにつれて猿人から原人、ネアンデルタール人と人類の歴史を辿るように上半身の角度は回復していき痛みも薄れていった。ちょうど一週間後に診療院に行ったら「もう大丈夫だけど筋肉が回復するまで最低3週間はかかるから無理は禁物。腰に貼られたテーピングは自然に剥がれるまではそのままにしときなさい」とのこと。

正直ベッドの上で動けなかった数日の間はすでに購入していたLCCの仙台から関西空港、関西空港からバンコクまでの航空券は捨てるしかないと考えていた。今でも出発できたことがちょっと信じられなくて奇跡だとすら思っているくらいだ。原因はおそらくニューヨークでバドライトライムとプリングルスのサワークリームオニオンの組み合わせをアホほど堪能しまくった挙句帰国してから運動不足で不摂生な日々を送っていたことだろう。文字にしてみると改めて自業自得かつ腑抜けて間抜けなこと甚だしい限りである。

出発してから話したことのある旅行者が自分について思い出すときは結構な確率で「あのぎっくり腰の」という枕詞がつく気がする。ちなみに日本人だけでなくいろんな国の旅行者にこの話をしてきたが、魔女の一撃というとある程度年齢がいった欧米出身の人々の多くはすんなり理解してくれた。

 

しかし魔女の一撃ってとても絶妙なネーミングだと思いませんか?日本でもぎっくり腰なんて同情よりも哀れみを感じさせるふざけた名称を直ちに止め、どんどん魔女の一撃を浸透させていくべきだと強く思います。だって「昨日の夜魔女の一撃くらって今日は出勤出来ないんです」って言ったら絶対に無理はするなって言われますから。ぎっくり腰の「痛いんだろうけど頑張ったら会社来れるでしょ」的なチャラいノリとは大きな違いです。ロールスロイスとワゴンRくらい違います。

まあ一ヶ月が過ぎて腰のテーピングを剥がした記念に徒然と書きましたが、もしぎっくり腰をやっていなかったら初日の予防接種は乗り越えられなかっただろうしそもそも病院に行っていたかも怪しいもんです。「おれはあのぎっくり腰の痛みを経験しているんだ!だから注射ぐらい怖くない!」と自分を奮い立たせることが出来たという一点のみ怪我の功名だったと言えるでしょう。

今ぎっくり腰をやっちゃってる皆さんはくれぐれもお大事に。将来ぎっくりしちゃう人はご愁傷様ですが、人生で一度くらい経験しても悪くないもんですよ。ストレッチとか筋トレとかすごく頑張るようになるので。でもぎっくらないのに越したことはないのでお互いに健康には気をつけましょう。

 

小沢健二 ー back to back


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