キルギス、ビシュケクの日本人宿。たぶん深夜2時ぐらい、他の旅行者が皆寝静まった後のリビングでラップトップをかたかたと叩いている二人。一人は自分で、もう一人はいつも物凄い量の物凄い美味い夕食を作ってくれる人だった。
ウズベキスタンのビザを待つという立派な言い訳を手に入れた自分は他のビザ待ち旅行者のようにトレッキングにも行かず毎日だらだらと過ごしていて、当然早起きなんてするはずもなく自然といつも夜更かしをしていた。その人(最初はちょっと取っつきにくいのかと思いきや全然違った)とは漫画の話をするようになり、結構な量の漫画を読んできた自負があった自分なんか比べ物にならないくらい博識な彼から薦められたのがこうの史代だった。
「夕凪の街 桜の国」と「この世界の片隅に」の二作品を読んでみて、率直に思ったのが両者とも派手さは無いし新鮮味もあんまりないけど妙に沁みる話だなということ。気がつくとついつい読み返してしまう、するめみたいにじわじわくる作品だった。
そして「この世界の片隅に」が映画化されることを知る。今年は劇場で「シン・ゴジラ」「君の名は」を観こともあって特撮やアニメ系はもういいかなと思っていたのに絶賛する感想しか聞こえてこないので観に行く気になってしまった。
都心では満員になる回も多いらしいが月曜日の12時、それも板橋の片隅にある映画館ではそんなことはなかった。でも上映開始までにちょろちょろと誰かが入ってきていつの間にか客席の六割くらいが埋まっていた。
原作を読んで内容を知っている映画の場合、特にアニメの場合はそれが顕著なのだが声の違和感が出てしまうことが多い。しかしこの映画の冒頭で主人公の声を何の違和感も戸惑いもなく自分が受け入れていることに気づき静かに驚いた。漫画を読んでいた時に自分の頭の中で当てていた声と完全に一致するなんてことがあるわけない。でも観終わった後ではもう主人公の声はのん(能年玲奈)以外考えられないくらいだった。
映画は原作のストーリーに忠実に、忠実過ぎるくらいに進んでいった。多少カットされていたエピソードはあったもののそうする必要があったと十分に理解できる構成だったし何の不自然さもなかった。そして音が出て絵が動くアニメになったことで表現や描写はよりわかりやすく、よりダイレクトに我々観客に伝わった。
もっとも一番重要かつ本質的なことは原作も映画も変わらなかった。戦争が起きても空襲があっても怪我をしても身近な人が死んでも日々は淡々と流れ、どんな状況でも日常がそこにあるということ。台詞やBGMで過剰に泣かそう、感動させようとする作品がわりと多い中で安易にそうしなかったことは素晴らしいと思う。それにそうする必要なんて微塵も無かったし。
決して前のめりになって、ハラハラ・ドキドキで隣に座る女の子の手を思わず握ってしまうような映画ではない。背もたれにしっかりと体重を預けてゆっくりとじっくりと観る映画だった。そして観終わった後は原作と同じく妙に沁みる映画だった。
個人的には結構な頻度でお盆の時期にテレビ放映される「火垂るの墓」をそろそろお役御免にして「この世界の片隅に」を放映してもいいんじゃないかと思う。「火垂るの墓」をけなすつもりはないがどうしても付随してしまう戦争の悲惨さといったようなイメージやその伝わり方がそろそろ時代に合わなくなっている気がするから。
「この世界の片隅に」のテーマの一つも戦争だ。でも作品の中ではその戦争すらも日々の一部であり、わかりやすく過剰に悲しみを煽ったりせずとも戦争とはどういうものなのかはちゃんと伝わってくる。そして観終わった後に子どもも大人もギャルもチャラ男もジジイもババアも、皆で揃っていろいろ話すことが出来るなかなか稀な映画なのだ。
まだまだ上映館数は少ないけれどSNSなどで評判はすごい勢いで広まっているので是非拡大ロングランしてこの映画に関わった人がちゃんと報われて欲しいし報われるべき作品だと思う。
コトリンゴ – 悲しくてやりきれない